「森羅万象すべてが教訓」不定期連載シリーズ 1-3 羽田野隆司
管理者用母は“木場のじゃじゃ馬娘”。 父の他界から激動の時代へ
帰国した宇兵衛は1902年、明治35年にD&M社の日本総代理店として、東京の三田に「D&M商会」を設立し、総合スポーツ用品および婦人装飾用品の製造・販売をスタートさせました。
その時代、米国に渡った度胸もさることながら、これからの日本は米国と同様、スポーツが盛んになるだろうと見抜いた“先見の明”も「凄い!」の一言に尽きますね。
ただ、創業者である宇兵衛は、自分の子どもに家業を継がせなかった。 当時、高島屋さんに勤めていた私の父である羽田野庄二を連れてきて、宇兵衛の兄である忠治郎の孫娘である美代と夫婦にして家業を継がせたのです。
美代は私の母親になるわけですが、実家が材木屋であり、“木場のじゃじゃ馬娘”という異名をもつ娘でしたから、父親も手こずったことも多かっただろうなと思う反面、親父亡き後、三代目社長として長い間、会社を守ってきてくれましたし、あのくらい気が強くなければ務まらなかったという思いも強いですね。
三代目社長の美代は、100歳という長寿を全うして旅立ちました。 長く業界におられる方は御存知よりのこともあろうかと思いますが、その武勇伝を数え上げたら枚挙し切れないほど、様々なエピソードを残してくれました。
私が中学に入学した昭和19年、戦争の真っ最中でしたが、毎週のように特高の刑事がやってきて、D&M(デイエ商会)の会社名は敵性の表現であるから日本語の名前に変えろ!と再三にわたって強く命令されていたにも関わらず、「冗談じゃないわよ!」と最後まで踏ん張り通したのは、母の度胸の良さを成せる業だったと思います。
自分の母親ながら、女にしておくのは惜しいと申しますか、男に生まれたほうが良かったのかもしれないと思えるほどの女丈夫でしたね。
40年以上にわたり、女性の身でありながら必死に会社を切り盛りせねばならなかったのは、昭和13年に二代目社長であり、私の父であった庄二が肺炎にかかり病没してしまったためです。 享年38歳の若さでした。
私の父が二代目社長として在任したのは昭和3年から昭和13年まででしたが、幼かった私にも事業は順風満帆であることは理解できました。
父は競走馬の馬主やっていましたし、別荘も所有していましたからね。 まぁ、仕事も遊びも一生懸命だったということでしょうね。
父が仕事で大阪に出張に出かける時、何度も一緒に連れていってもらいました。 大阪の料亭のような店で美味しいものを沢山食べさせてもらったことも、当時の思い出として鮮明なまでに記憶に残っています。
父は別荘で倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまいましたが、父の死去とともに「順風満帆」のムードは跡形もなく吹き飛び、会社にとっても家庭にとっても受難の時代に突入しました。 日中間における事変が起こり、統制の時代が始まったからです。
若い人は戦争に取られてしまい、機械はあっても人がいないという状況でした。 大勢いた従業員がごっそり居なくなり、お爺ちゃんのような人が2人で機械を動かしていたことを覚えています。
子ども心にも、時代が大きく変わってしまったことは理解できましたね。
====次回(2-1)へ続く=======