「森羅万象すべてが教訓」不定期連載シリーズ 3-2 羽田野隆司
管理者用戦争は人それぞれの人生を大きく狂わせてしまうもの・・・!
父親の庄二が亡くなり、母の美代が3代目の社長を継いだ昭和13年。 会社の切り盛りに追われ、当面、育児どころではなくなった母は、木場の実家に私を預けました。 長女であった母の妹や弟は、私の叔父、叔母になるわけですが、随分と面倒を見てもらいました。 女系姉弟の中で、長男の伊井孝雄が、材木問屋の伊井商店を継ぐはずだったのですが、昭和13年に召集令状を受け取り、工兵として満州に出征することになりました。
孝雄叔父は、女ばかり多い姉弟だったこともあり、実の弟以上に私を可愛がってくれました。 しかし、出征地の満州で体を壊して入院。 治療の効果が薄いため内地に帰還し、仙台の日本赤十字病院に入院したのですが、治療の甲斐なく23歳という若さで生涯を閉じてしまいました。
これから“花も実も”という時期に、戦争によって命の炎を吹き消されてしまった叔父は、三井銀行本店に勤めていました。 何年か勤めたら銀行での経験を生かし、家業を継いで大きく発展させるという、きちんとした人生設計を描いていたのだと思います。 とても頭のいい人でしたし、周囲の期待も大きかった。 その分、死亡を知らされた家族・親類の落胆が大きかったことは述べるまでもないでしょう。
叔父の葬儀に、三井銀行からひときわ大きく立派な花輪が届きました。 生花を使ったとても豪華な花輪です。 母の美代が「さすがに三井さんだね~、立派な花輪!」と驚きの声を漏らすと、皆の悲しみを紛らわすために、父の兄の長男である伊井義一(元・D&M専務)がこう言ったのです。 「美代さんの葬式の時は、これよりも立派な花輪を飾ってあげるよ」
そう言った彼の享年は85歳。 100歳まで生きた美代から、逆に花輪を送られることになってしまった。 もっとも男性で85歳まで生きたのですから、立派と言えるでしょう。 義一も戦地に赴き辛酸を舐めてきました。 生きて復員してくれたおかげで、母を助けながらD&Mの柱石となり、長年にわたって会社の発展に貢献してくれました。
叔父の孝雄にしろ、義一にしろ、日中戦争、第二次世界大戦と、名称は異なりはすけども、戦争の舞台に立たされることになってしまった。 戦争がなかったら若くして死なずにすんだはずですし、違った人生を歩むこともできたと思います。 戦争はすべてを狂わすもののようですね。
孝雄叔父が亡くなってからというもの、私は事あるごとに「伊井商店」を継いでくれないかと言われ続けることになるのですが、母にしても一人息子の私をD&Mの跡継ぎにと考えていたでしょうから、それはできない相談でもあったわけです。
私は子どもの頃から手先が器用でした。 木場で暮らしていた時代、まわりには木端(こっぱ=木の切れ端)がたくさんありましたから、それをノミで削って様々なものを拵えました。
時節柄といいますか、子どもの憧れの対象でもあった艦載機を木彫りで作り、廊下に並べて遊んでいたのを見た人が「これは見事だ」と絶賛してくれたことがきっかけで、しばらくの間、深川区役所に貸し出して入り口に陳列してもらったことがあります。 私は設計図に従ってモノを作るのではなく、自分の感覚を信じて形にしてゆくほうが好きでしてね。 ですから、子どもながら社内の営繕係よろしく、いろいろな備品を作ったり、直したりしました。
美代社長の機転が会社のピンチを救う!! 牛が引く2台の荷車
昭和18年に、メーカーとしての貴重な財産である丸編み機やミシンなど30台ほどの機材を拠出せざるを得なくなるのですが、ミシンをつなぐ長くて重いシャフトだけは作業場からどうしても運び出すことができなかった。 丸編み機やミシンがないわけですから、実際には役に立たないシャフトなのですが、唯一の財産として羽田野家に残されることになったのです。
昭和20年3月10日の東京大空襲。 1夜で10万人の生命が奪われた悪夢の日です。 本所の社屋も設備も材料もすべて灰になってしまいました。 辺りは1面は何も無い焼野原と化してしまったのです。 家と会社のあった場所に行ってみると、作業場の跡には長いシャフトが黒焦げに。 そして私たち家族にとって馴染みの深いオートミール用の厚い鍋が、原型を留めながらも焼け焦げた状態で転がっていたのです。
空襲に来たのは“空の要塞”と言われた大型爆撃機のB29。 それが自宅から50mほどのところに落ちてきたときには、流石に肝をつぶしましたね。 怖いなんてものではありませんよ。 巨大な爆撃機が黒煙と真っ赤な炎を吹き出しながら、バラバラになって頭の上に落ちてくるシーンを想像してみてください。 まさに凍りつく思いでしたね。
母と私は、知人を頼って経堂に移り住むことになりました。 「着るものもなく」「食べ物もなく」という状況は、まさにどん底といえるものでした。 日本全体が、そうした苦難の時代ではありましたが、すべてを失う辛さは、それを経験した人でないと到底、理解できないことだと思います。 じゃじゃ馬で鳴らした母も途方にくれるしかなかったと思います。
ほどなく終戦を迎えました。 文字通りゼロからではなく、マイナスの状態から再スタートせねばならなかった中、社長である美代の機転が会社の危機を救うことになるのです。
昭和18年の頃、農家のおはさんが千葉の佐倉から荷物を背負って野菜を売りに来た。 その農家は年間250俵もの米を生産していたようなのですが、頑丈な蔵に米を保管していると聞いて、ゴム生地やサテンの生地、金属的な光沢を放つドイツ朱子、押さえに使うバイアステープなどの生産資材を預かってもらうことを思いついた。 今後、戦火が一層激しくなることを予測した美代の判断と行動は正しかった。
牛が引く荷車2台で運び出しておいた生産資材が、D&Mを新たなスタートラインに立たせてくれることになりました。 牛車2台分の生産資材がなければ、再出発できなかったかも知れません。 「製造業者たるものは、常に材料のことを意識していなければならないものだよ」と、美代はいつも言っていました。 材料に気持ちを注ぎ込んで製品を作るのが職人の仕事だからと、材料を大切にすることを徹底して実践してきたことが、結果として会社を大ピンチから救うことになったのです。
【月刊スポーツ用品ジャーナル 2015年5月号に掲載】
====次回(4-1)へ続く=======