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不定期連載シリーズ
2016/03/16

「森羅万象すべてが教訓」不定期連載シリーズ 3-1 羽田野隆司

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幼い頃の生活様式はアメリカンスタイル。 朝食にオートミール!!

2代目社長となる羽田野庄二が大正9年(1920年)に入社し、輸入に頼っていたサポーター・コルセット・ブラジャーの国産品の開発に務め、大正15年にゴム入り織物の製織に成功しました。

輸入品を研究材料に国産化のための研究を重ねた結果、D&Mを日本におけるゴム入り織物の草分け的な会社とすべく道筋をつけてくれることになったわけです。

もしも高島屋さんが「なかなか仕事ができるやつだから」と、私の父親である庄二を推挙してくれなかったら、今のD&Mは存在し得なかったかも知れません。 また、創業者の鈴木宇兵衛が「よし、ならば仕事をさせてみるか」と決断しなかったら、当社の歴史はまったく違ったものになっていたでしょう。

当時の日本女性は洋装化が進む中にあって、今のように胸を大きく見せることに腐心するのではなく、むしろ乳房を押さえる、大きく見せないこと一般的な考え方でした。 なぜなら和服の伝統が強く根付いていましたからね。

コルセットは当時、靴下をガーターで留めて着用する時代であり、「乳バンド」「乳押さえ」とも言われていた「ブラジャー」よりも安定した需要があった。 ちなみに当時の婦人用靴下は絹製であり、値段は2円ほどであったと記録されています。 その頃の天丼が30銭であったようですから、天丼の6~7倍のお金を出さないと靴下1足が買えなかった。 かなり高い値段ですね。 上流階級の御婦人しか手にできなかったようですし、市場としては限られていたと言えるでしょう。

洋装化の流れが進む中で、多くの百貨店がゴム入り織物の製織に成功したD&M製品に注目し、販売に力を入れてくれました。

当社は創業当初は三田に続き、神谷町を拠点としていましたが、本所緑町に本社を移しました。 私が2歳、ヨチヨチ歩きを始めた昭和8年のことです。 本所緑町はメリヤス業、縫製業の中心地でしたから、そこに本城を置いたわけです。

創業者が米国に精通していたことは述べるまでもないでしょう。 2~3か月の洋行帰りなどというレベルではなく、アメリカで長年にわたって生活していたわけですから、その暮らしぶりはかなりアメリカンナイズされていたようです。

当然、庄二と美代の若夫婦も、親同然の存在である宇兵衛夫婦の生活ぶりの影響を強く受けざるを得なかったことは容易に想像がつきます。

私の離乳食は「オートミール」だったと聞かされていましたし、物心ついてからの朝食は、いつもトーストにべーコンエッグ、オートミール、ミルク、果物などでした。 ご飯に味噌汁、焼き魚といった日本食を食べるために箸を握ったのは、週に2~3度しかなかったと思います。

その後、父の死去に伴い、木場にあった母の実家に預けられた折、毎朝、ご飯と味噌汁、納豆に漬物という180度異なる生活環境が待っていました。 もっとも江戸前の気風が漂う木場で「朝ご飯でオートミールを食べた」などといえば、「オートミール?何だぁ、それは?ふざけたガキだ!」と、年嵩の悪童たちから悪態をつかれ、拳骨のひとつも貰うハメになっていたかも知れません。

私は子どもの頃から食べ物の好き嫌いがまったくありませんでしたし、「洋」でも「和」でも不自由なく、バランスの取れた食事をさせてもらっていたことを有難いと思っています。

父は世界チャンピオンと競い合える腕前をもつハスラーだった!!

父の庄二は、事業を軌道に乗せるために精力的に仕事をこなしていましたが、遊ぶことにも随分とエネルギーを注いでいたようです。

別荘や馬を所有していたことはすでに申し上げましたが、当時、趣味のひとつとしてビリヤードにも熱中していました。 これは鮮明すぎるまでに記憶に残っています。 というのは、ビリヤードに打ち込みすぎて、家に帰ってこない日も少なくなかった。

世界チャンピオンにもなった松山金嶺プロとサシで競い合っていたといいますから、父は玄人並みの腕前だったようです。 朝までビリヤード場で球を撞(つ)いている日もあった。 母の美代は自分で迎えに行くと、絶対に怒って帰宅しないため、私に迎えに行かせたのです。 5~6歳の私を円タク(※1円タクシー=当時1円で、どこまでも乗車できた)に乗せて、迎えに行かせたことも1度や2度ではありません。

ビリヤード場のドアから首を出している私を見ると、苦笑いしながらキューを台の上に置き、煙草を口にくわえたまま、「可愛い息子の顔を立ててやらねばならなくなった。 また来る!」といって出口のドアに向かう父の鯔背(いなせ)な姿は、幼かった私の目にも恰好よく映りましたね。

父を家に連れて帰ったところまではいいのですが、さぁ、それからが大変です。 お定まりの“犬も食わない夫婦喧嘩”というやつですが、母の気の強さも天下一品ですから、丁々発止の賑やかというか騒々しい夜が長く続くということもありました。 今となっては懐かしい思い出です。

本所緑町には、当時、相撲部屋が集中していましたね。 現在、外国人力士が全盛を極めていますが、無論、その頃は、外国人力士は一人も存在しませんでした。

各相撲部屋の稽古場のの出入り口には、水を張った大きな「たらい」が置かれており、稽古を終えた全身汗だく、ざんばら髪となった関取や番付上位の力士たちが、足だけ濯いで近くの銭湯に向かう。 それを褌かつぎたちが、力士たちの浴衣を持って後を追うシーンも目に焼き付いています。

銭湯で体を洗い終えた力士たちの大きな背中には、小さな子どもたちが歓声をあげながら、3~4人乗っかっている懐かしい場面も当時の記憶に拾うことができます。 子どもの好きな力士は、自分の背中で上手に遊ばせていましたね。

私も相撲が大好きです。 無論、旧国技館の時代ですが、子どもは「もぎり」(入場券をチェックする人)の手の下をかい潜って無料で観戦できました。 伝説を創った双葉山、玉錦の時代ですね。

相撲は日本の国技ですが、現在、横綱・大関をはじめ番付上位陣には外国人力士がズラリと名を連ねています。 外国人力士を否定するものではありませんが、やはり日本人力士が上位で活躍する姿を見たいと思いますね。

子どもの頃、映画もよく観に行きました。 無論、もぎりの手の下をスルリとくぐる、いつもの作戦です。 両国日活でチャンバラ映画、猛獣狩り映画、そしてワイズ・ミューラー主演のターザン映画が記憶に鮮明です。

現代のように毎週のように新しい映画が封切りされる時代ではありませんし、同じようなネタを国民皆で楽しんでいたように思います。

また、設備も単純に映写機でフィルムを回すというやつで、フィルムが外れたり、切れたりする。 映写機が止まるのは映画館側の責任なのに「しばらく、お待ちください」のアナウンスを流した直後「え~、お煎(煎餅の略)に、キャラメル~」などといって、売り子さんが食べ物を売りに現れたりするのですから、世の中、うまく出来ているものです(笑)。 

 

 【月刊スポーツ用品ジャーナル 2015年5月号に掲載】

 ====次回(3-2)へ続く=======

 

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