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不定期連載シリーズ
2016/03/10

「森羅万象すべてが教訓」不定期連載シリーズ 2-2 羽田野隆司

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「夢の超特急」は、もくもく煙を吐き出しながら走る蒸気機関車だった

創業者は自分の兄の孫娘(伊井美代)と、私の父(羽田野庄二)を一緒にして家業を継がせ、またアメリカに渡って暮らすことになりました。

昭和6年に私が生まれ、昭和13年には病没してしまったため、父親に関しては7歳の時までの記憶しかありませんが、優しい父親としての思い出は鮮明に残っています。 事業は順調でしたし、親父は別荘や競走馬を所有していたほどですから、気風(きっぷ)のほうも相当に良かったようです。

身贔屓ではなく、残っている写真を見ても、なかなかの男ぶりですから、女性にもかなりモテたんだろうなぁということは、誰でも容易に想像できるのではないかと思います。 親父の写真は会社に飾ってありますが、訪ねてくださった方に言われたことがあります。

「親父さんは惚れ惚れするほど、いい男だね~。 息子は、少しばかり二枚目になる遺伝子が欲しかったところだなぁ」 これは口の悪い朋輩の台詞ですが、血を分けてもらった私が「本当にそうだよな~」と感じることがあるくらい、カッコイイ姿の写真が残っています。

父親は昭和8年に本所に移転し、横編み縫製による事業を軌道に乗せました。 ゴム織物の製織に成功し、サポーター、コルセット、ブラジャーの製造・販売の事業を拡大していくことになったのです。 当時、百貨店には蔵前の久野さんや神田の金沢さんを通じて商品を卸していましたが、横編みの技術で仕上げるランジェリー関係の問屋さんが無かったので、三越さんや高島屋さん、伊勢丹さん、松屋さん、松坂屋さんに置いていただいた。

メインは「乳おさえ」という商品。 説明するまでもないでしょうが(笑)、これはブラジャーのことですね。 これが飛ぶように売れました。 大阪でも、大丸さん、そごうさん、といった具合に次々に取引先が増えていきました。

昭和5年に東海道線に超特急「燕」(つばめ)が登場しましたが、子どもの私は父親が関西に出張する際、この列車にたびたび乗せてもらいました。 私が旅好きなのは、この当時の原体験によるものかも知れません。

今、東京と金沢を2時間30分ほどで繋ぐ北陸新幹線開通の話題で盛り上がっているところですが、当時、東海道線に鳴り物入りで登場したのは新幹線ではありません。 「超」がつく特急列車です。

東京と神戸を結ぶ超特急「燕」は、それまでの特急「富士」よりも2時間半も時間を短縮したといえば、「おっ、凄いな」と思われるかも知れませんが、早くなったとはいうものの、それでも東京・大阪の間を移動するのに8時間30分もかかったのです。 もくもくと煙を吐き出しながら走る蒸気機関車が「夢の超特急」でした。

今では、「のぞみ」に乗れば、2時間半で大阪まで行けるわけですから、まさに隔世の感がありますね。 その夢の超特急「燕」に乗り、5~6歳の私は、商用目的の父親と一緒に東京と大阪を何度も往復しました。 弁当を食べながら、超特急の迫力とスピードを楽しませてもらっていた私は、人様から見れば事業家のボンボンにほかならなかったと思います。

ことほど左様に、当時の羽田野家は「順風満帆」の時代を謳歌できたのですが、それはそう長くは続きませんでした。 昭和12年に日中戦争が起こり、翌13年に父親が肺炎で死去したあたりから、「受難の時代」の様相が色濃くなっていきました。 世の中も会社も、そして羽田野家も・・・。

2代目社長であった庄二の死去に伴い、美代が3代目として遺業を継ぐことになりました。 昭和13年のことです。 木場の材木問屋の長女だった美代は、今流の表現で物言いすると“お嬢様”であったようです。

自分の母親を見習いながら木場で培った負けん気の強さ?を発揮しながら、美代はD&M商会の舵取り役の仕事に対して懸命に取り組みました。

私は木場にある母親の生家に預けられ、そこで生活しました。 仕事が忙しくて、子どもの面倒を満足にみることができないためだったのですが、私にしてみれば遊び場に不自由なく、友達も大勢作ることができたし、楽しく暮らせましたね。

母親には「お前は借家の2階で生まれたんだよ」とよく言われました。 これは木場でチョイとは知られたお嬢様(※表現としては、じゃじゃ馬のほうが正解かも知れません)が、借家の2階で子供を産んだことについて、不満というか何かしら思うところがあったのでしょう。

もっとも私にしてみれば、五体満足に生を授かりましたから、借家だろうが2階だろうが関係ないよ、とばかりにサラリと聞き流していました。 思ったことを遠慮なく口に出してしまう性格は、100歳で亡くなるまで変わることがありませんでしたね。 母は大往生することができたと思っています。

時々、私は店に足を運びました。 日中戦争の火蓋が切られていましたから、子どもの私でも日を追うように世の中が次第に変貌していくのが感じられました。 当時、会社は莫大小(※メリヤス)の組合に入っていましたので、戦争中はそこから軍隊の仕事が回ってくるようになりました。

縫製が済んだ軍人さん用のシャツがいつも山ほど積まれていて、その襟のところに合格のシールを貼る仕事を手伝ったことは懐かしい思い出のひとつです。 小さい頃から手先が器用だった私は「門前の小僧」よろしく、一通りの仕事の流れどころかミシンの扱いにも通じていたとは言いながら、小さな子どもが合格のシールを製品に貼り付けているのですから、傍から見ればいい加減な作業と見られてもしょうがなかった・・・(笑)。

店には縫製のための機械が沢山ありました。 店員さんも大勢いたのですが、若い男性は兵隊に徴用されてしまい、徴用逃れのお爺さんが2~3人、仕事場で働いていた姿が脳裏に焼き付いています。

戦争は激しくなっていきました。 そして昭和17年、まったく仕事が無くなり、お爺さんたちもどこかに行ってしまった。 そして昭和18年に編み機5台と20数台のミシンを拠出せよというお達しがあり、私たちの生活を支えてきた大切な機材一式が、根こそぎ持っていかれてしまったのです。

これには気丈な母も、さすがに堪えた事態だったと思います。 ひとつの「栄華の時代」が終わった瞬間です。 私は12歳になったばかりでした。 

 【月刊スポーツ用品ジャーナル 2015年4月号に掲載】

 ====次回(3-1)へ続く=======

 

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