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不定期連載シリーズ
2016/03/07

「森羅万象すべてが教訓」不定期連載シリーズ 2-1 羽田野隆司

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いつも機敏に動くことを心がけることは、とても大切なこと!!

前回は、D&Mの創業に至るまでのことをお話ししました。 創業者の鈴木宇兵衛は米国から帰国し、東京の三田にD&Mの日本総代理店として「デイエム商会」を設立し、総合スポーツ用品や婦人服飾用品の製造・販売を始めました。 明治35年、西暦1902年のことです。

今から100年以上も前に、当時の日本人にとって未知の世界ともいえるアメリカに渡って事業を立ち上げて成功させてきた人ですから、帰国してからの事業も順調に立ち上げることができたようです。 

宇兵衛の長男はフランス娘と結婚してサンフランシスコで生活していました。 欧米では昔から国際結婚は珍しいことではなかったのでしょうが、目の青い女性と結婚した創業者の長男も、米国で生まれ育ったとは言いながら、今の表現でいえばグローバルな感覚は持っていたようです。

事業が軌道に乗り、手が回らなくなってきたのですが、長男夫婦を米国から連れてくるわけにもいかず、困った宇兵衛は取引先の高島屋さんにリクルートに出かけた。

大阪に商用に出掛けたおりに、人を介して長堀の高島屋さんに、「使える番頭が欲しい。 誰か適当な人材はいないだろうか」と頼み込んだのです。 その時、高島屋さんの幹部が紹介してくれたのが、岐阜の郡上八幡出身の私の父親(庄二)だったというわけです。

その幹部の方は「彼は私が呼ぶと誰よりも早くすっ飛んできてくれる。 とにかく仕事の早いヤツだ」と評価していたようです。 その話を耳にした私は“いつも機敏に動く”ことを心がけることは、とても大事なことだなと思いましたね。

これは座右の銘ではないですが、私自身、人が呼びかけてきたら、できうる限り素早く反応し、必要なことだと判断したら、損得は別にして、すぎさま行動するように心がけてきました。 これは時代が移り変わっても、人として生きていく上での規範として、とても大切なことではないかと思っています。

創業者に見込まれ、1920年(大正9年)にデイエム商会に入った私の父親は、仕事をさせてみたら、なかなかに使える人間だという評価をもらった。 国産化のための道筋をつけるための努力が社内外で高く認められたようですね。

「一所懸命に働いてくれるし、年齢にも不足はない。 そろそろ所帯を持たせるか」という話になって、相手として浮かび上がったのが、創業者の兄の孫娘に当たる私の母親(美代)でした。

話はちょっと横道にそれますが、デイエム創業者である鈴木宇兵衛は酒問屋の3男坊。 長男は実家を継いでいましたし、次男は伊勢吉という油問屋で材木部門を担当し、材木事業の商圏を貰って独立することになりました。 その後、私の母方の祖母(伊井てつ)が長女ということもあって暖簾分けをしてもらうことになるのですが、一緒になった私の祖父は商売の才能は全く無かったようです。

祖父が商売に向いていなかった分、祖母が苦労しながら陣頭指揮を取り、事業を大きくしていったなかで、私の母(美代)が生まれ育ったわけです。 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われてきたほどですから、幕末時代も火事は多かった。 火事が多いから新政府が一カ所に材木商を集めたのが、“木場”という町名の由来であることは述べるまでもないでしょう。

男達の野太い声が飛び交う木場で、商売を切り盛りしてきた母親の姿を見て育ったのが、母の美代というわけです。 母は生まれついての負けん気の強さに加え、育った環境が“火事と喧嘩”が3度の飯より好きという江戸の文化が色濃く漂う場所だったこともあり、“木場のじゃじゃ馬娘”という異名を貰いながら育つことになったようです。

 【月刊スポーツ用品ジャーナル 2015年4月号に掲載】

 ====次回(2-2)へ続く=======

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